二天一流とは、世に言われている二刀流のことではありません。 宮本武蔵は、長年東西に剣客の旅を続け、細川忠利侯に招かれて肥後千葉城に居住しました。 その後忠利侯の命を受け、「兵法三十五箇条」を献上しました。 その二年後に、この霊巌洞で「兵法三十五箇条」を骨子として、五輪書を書き上げました。 その後、五輪書は寺尾勝信へ伝授、兵法三十五箇条は寺尾信行へ授与し師範家相続の証としたそうです。
その後、二天一流は五輪書で確立し、師範家は五流派に分かれ藩外不出として栄え江戸末期には、野田、山尾、山東の三流派のみに継承され、その後明治から昭和にわたり断絶、或いは再興し、現在では野田派のみ連綿として熊本で現存している状態とのことです。
毎年五月十九日の武蔵の命日にはこの霊巌洞で、六月十二日の寺尾信行の命日には寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し、先師の霊を弔い、道場では朝鍛夕錬の精神で二天一流の鍛錬を続けているそうです。
こちらが霊巌洞全体を見たところです。
奥の階段を登ると馬頭観音が祀られています。
霊巌洞正面
階段を登ってくると格子があり、この奥に馬頭観音が祀られている場所です。
右に少し写っているのが、船頭石。
この石碑には、武蔵が五輪書を書いた時の心境、「神仏は尊し、されど神仏を頼まず」も紹介されています。
馬頭観音の正面にある船頭石。
武蔵もこの上に座禅していたのでしょうか。
馬頭観音は石体四面と言われていますが、正面からでも良く見えませんでした。
沢村大学とは細川家の家老で、逆修とは生前に戒名などをつけてもらい、一般の葬式などを生前修行厳修することだそうです。
戦国時代の文武兼備の武将 鹿子木寂心の逆修碑もあります。
霊巌洞正面下
松本幸四郎氏が、宮本武蔵を演じた時に建てられたものでしょうか。
昭和60年になってます。
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